
ダニエル・カーネマンの研究は、臨床バイオ投資にかなり直接的に応用できます。というのも臨床バイオは、
1. 非常に小さい症例数
2. 低いベースレート
3. 強烈なストーリー
4. 二値的カタリスト
5. 長いフィードバック期間
6. 極端な株価変動
が同時に存在するため、カーネマンが研究してきた「人間が最も判断を誤りやすい環境」にかなり近いからです。
カーネマンは2002年、「不確実性下の人間の判断と意思決定」に心理学の知見を統合した功績でノーベル経済学賞を受賞しました。特にエイモス・トベルスキーとの研究によるヒューリスティクス、ベースレート無視、少数の法則、プロスペクト理論、フレーミングが中心です。
結論から言うと、臨床バイオ投資で一番重要なのは、「この薬は良さそうか?」を考える前に、「この種類の薬は通常どのくらい成功するのか?」を考えるという習慣です。
これはカーネマンの研究を投資に落としたときの中心思想だと思います。
1. 「少数の法則」臨床バイオで最も危険なバイアス
1971年のトベルスキー/カーネマンの有名な論文が、『少数の法則への信念』です。
人間は、小さなサンプルでも母集団の特徴をかなり正確に反映しているように感じてしまう、という研究です。これは臨床バイオそのものです。
たとえば Phase 1/2 で、
・症例数=10
・奏効者=8人
・客観的奏効率(ORR)=80%
だったとします。直感的には、「80%も効いている」と感じます。しかし 8/10 という数字自体の不確実性は非常に大きく、単純な二項分布として見ても、正確95%信頼区間はおよそ 44%~97% です。
つまり、8/10 というデータから真の奏効率が80%付近だと強く確信することはできません。さらに実際の臨床試験では、
・患者選択
・評価可能患者のみの集計
・追跡期間の短さ
・打ち切り
・ベースラインの不均衡
・治験医師による評価
・評価項目の選択
・奏効者の定義
・多重性
などが加わります。したがって、「8/10 が反応した」と、「Phase 3 でも80%程度反応する」はまったく違う命題です。これは臨床バイオ投資で最重要のカーネマン的チェックポイントです。
2. 代表性ヒューリスティック「成功薬っぽい」は「成功確率が高い」ではない
1973年の『予測の心理学について』でカーネマンとトベルスキーは、人間が予測するときに「その事例が成功例にどれほど似ているか?」を過度に使い、事前確率を無視しやすいことを示しました。
臨床バイオだと非常によくあります。
たとえば、
・「この薬はキイトルーダの初期データに似ている」
・「この会社は過去に買収された会社に似ている」
・「FDAが画期的治療薬指定を与えている」
・「主要オピニオンリーダー(KOL)が非常に強気」
・「RA Capital が大量保有している」
という情報です。これらは全部有益ですが、似ている ≠ 同じ確率です。薬剤Aと過去の成功薬Bが似ているほど、システム1は、「これは成功パターンだ」と認識します。
しかし本当に問うべきなのは、同じ疾患・同じ臨床段階・同じ評価項目・同じ試験設計・同じ治療モダリティの薬が、歴史的にどのくらい成功しているのか?です。
3. ベースレート無視――まず「外側」から見る
これは臨床バイオ投資で最も実践価値の高い考え方です。カーネマンとダン・ロバロは1993年の『臆病な選択と大胆な予測』で、内部視点と外部視点を区別しました。
内部視点は、
・この会社
・この薬
・この患者
・この作用機序
・この臨床試験
の物語を詳しく見る方法。
外部視点は、
・同じ種類のケースが過去にどうなったか?
を見る方法です。
カーネマン/ロバロは、人間は内部視点に偏るため、予測が過度に楽観的になりやすいと論じています。臨床バイオでは、まずこちらです。
内部視点
・「作用機序が非常にきれい」
・「Phase 1 では全員改善した」
・「KOLがすごく評価している」
・「FDAとの面談でのコメントも好意的」
・「CEOは Phase 3 成功に自信を持っている」
外部視点
・「この疾患の Phase 2 → Phase 3 成功率は?」
・「この代替評価項目で過去に承認された薬は?」
・「同じ治療モダリティの Phase 3 成功率は?」
・「この程度の症例数の Phase 2 から Phase 3 で効果量が維持された割合は?」
こちらを先に置きます。
4. 実際、臨床試験には非常に強いベースレートが存在する
BIO / Informa / QLS の2011~2020年データでは、全疾患・全モダリティで、
| 段階 | 次段階への成功率 |
|---|---|
| 第1相 → 第2相 | 52.0% |
| 第2相 → 第3相 | 28.9% |
| 第3相 → NDA/BLA申請 | 57.8% |
| NDA/BLA → 承認 | 90.6% |
となっています。Phase 1 から最終承認までの承認到達確率(LOA)はわずか7.9%でした。特に Phase 2 が最大のボトルネックです。しかも疾患によって大きく違い、
Phase 2 → Phase 3 では、
・血液疾患:48.1%
・眼科:35.5%
・神経疾患:26.8%
・がん:24.6%
・心血管疾患:21.0%
という差があります。
さらに同報告では、希少疾患の Phase 1 → 承認:約17.0% に対して、全体:約7.9% で、患者選択バイオマーカーを使う開発プログラムも高い成功率を示しています。
ここが非常に重要です。「Phase 2 だから30%」ではまだ粗すぎます。カーネマン流ならさらに、
・適応症
・治療モダリティ
・バイオマーカー
・評価項目
・試験設計
・疾患の不均一性
・規制上の先例
まで参照クラスを細分化します。
5. ベイズ的思考はカーネマンが示したバイアスへの強力な解毒剤
カーネマン自身がベイズ投資モデルを作ったわけではありません。ただし彼らが繰り返し示した最大の問題が、人間が事前確率を無視すること
なので、ベイズ更新は非常に相性がいいです。
基本は、事後オッズ = 事前オッズ × 尤度比です。仮にある Phase 2 薬の外部視点から見た成功確率を25%とします。
すると、事前オッズ
= 0.25 / 0.75
= 0.333
ここで新しいデータが、「真に効いている場合には、効いていない場合より3倍出やすいデータ」つまり仮に尤度比=3だったとします。
0.333 × 3 = 1
したがって事後確率は、50% です。つまりかなり良いデータが出ても、
25% → 50%
なのであって、
25% → 90%
ではありません。臨床バイオ投資家が陥りやすいのは後者です。
6. 平均への回帰「Phase 1 が凄すぎる」こと自体を警戒する
カーネマン/トベルスキーの予測研究では、回帰効果を人間が直感的に理解しにくいことも重要なテーマです。臨床試験では非常に重要です。
Phase 1 で、
・客観的奏効率(ORR)90%
・完全奏効率(CR)60%
という驚異的な結果が出たとします。その数字には、真の薬効 + 患者選択 + 標本誤差が含まれています。極端に良い数字ほど、次の大規模試験では、平均方向へ戻る可能性があります。
したがって、
Phase 1
ORR 90%
Phase 2
ORR 70%
でも、必ずしも「薬効が悪化した」とは限りません。逆に Phase 1 の90%が幸運だった可能性があります。この考え方は、少数例のがん臨床試験では特に重要です。
7. アンカリング――株価では最も危険
1974年の『不確実性下の判断――ヒューリスティクスとバイアス』では、
・代表性
・利用可能性
・アンカリングと調整
という三つの代表的ヒューリスティクスが整理されました。アンカリングは臨床バイオ株で非常に強力です。典型例は、
IPO 価格 20ドル
↓
現在 4ドル
を見ると、「80%も安くなっている」と感じることです。しかし20ドルは現在の企業価値とは関係ありません。同様に、
・52週高値
・公募価格
・私募価格
・アナリスト目標株価
・自分の取得単価
もアンカーになります。特に危険なのが、「自分は8ドルで買ったので、8ドルまでは持つ」です。合理的な質問は、今日4ドルで初めてこの銘柄を知ったとして、4ドルで買うか?
だけです。取得単価は将来キャッシュフローと無関係です。
8. プロスペクト理論――バイオ株で「損切りできない」理由
1979年の『プロスペクト理論――リスク下の意思決定分析』はカーネマン/トベルスキーの代表論文です。重要なのは、人間が資産そのものではなく、基準点からの利益/損失として結果を評価することです。
さらに、利益領域ではリスク回避的になりやすく、損失領域ではリスク追求的になりやすい。これをバイオ株にすると非常に分かりやすい。
+100%の株
「半分利確しておこう。」
-60%の株
「ここから売るくらいなら Phase 3 まで持とう。」
となりやすい。結果として、勝っているポジションではリスクを減らし、負けているポジションではリスクを増やすという逆転が起こります。
特に危険なのが、
Phase 2 失敗
↓
株価-70%
↓
次のFDA面談まで保有
↓
さらに二値的リスク
というパターンです。判断基準は取得価格ではなく、
現在の企業価値
×
現時点での承認確率
×
成功時価値
です。
9. フレーミング――同じニュースでも書き方で判断が変わる
プロスペクト理論周辺の研究では、同じ結果でも利益/損失の表現によって選択が変化するフレーミング効果も重要です。バイオ企業のIRでは頻繁に起きます。
例えば、「80%で病勢制御を達成」と、「20%が12カ月以内に病勢進行」は数学的には裏表です。しかし印象はかなり違います。
あるいは、「主要評価項目をわずかに達成できなかった」と、「事前規定された主要評価項目を達成できず、試験は失敗した」でも印象は違います。
したがって決算・プレスリリースを読む際には、企業の文章を一度すべて数字に変換するのが非常に有効です。
「良好」
「有望」
「臨床的に意味がある」
という形容詞を一旦全部消して、
・症例数
・効果量
・信頼区間
・p値
・評価項目の階層
・奏効率の分母
・追跡期間
だけを見る。これはかなり強力なカーネマン対策です。
10. 利用可能性ヒューリスティック――最近見た成功例を重視しすぎる
1974年論文のもう一つの中心が利用可能性です。人間は、思い出しやすい事例ほど頻繁に起こるように感じます。
バイオ投資なら、
「最近、加速承認が通った」
↓
「この薬も加速承認が通りそう」
とか、
「最近、製造・品質管理(CMC)関連のCRLが連続した」
↓
「FDAが急に厳しくなった」
という判断です。
ある1件の劇的成功/失敗が、参照クラス全体を上書きしてしまいます。対策は、最近の1件ではなく、過去20~50件を見ることです。
特にFDAの先例は、似た案件1件より、類似案件の分布を見る方がよいです。
11. 「難しい質問」を「簡単な質問」に置き換えてしまう
これはカーネマンのシステム1/システム2の議論から非常に重要なポイントです。
人間は、「この薬の承認確率はいくらか?」という難しい質問に答えられないと、無意識に、「この薬は魅力的に見えるか?」という簡単な質問に置き換えます。
すると、
・作用機序が美しい
・CEOが優秀
・KOLが熱狂的
・FDAの指定を取得
・有名ファンドが保有
・Xで評判がいい
ことが、承認確率に変換されてしまいます。ここが臨床バイオで非常に危険です。
12. 13F / 13D / 13Gを見るときにもカーネマンは使える
例えば、RA Capital が10%取得したとします。これは非常に重要な情報です。
しかし本来意味しているのは、RA Capital がこの投資を魅力的だと判断したであって、薬が成功するではありません。
システム1はここを、「優秀なファンドが買った」→「薬は成功する」と短絡しやすい。したがってファンド保有は、臨床エビデンス層とは別に、投資家情報層として扱った方がよいです。
ファンド保有は、事前確率を少し上げる証拠にはなっても、臨床データの代替にはなりません。
13. FDAについても「物語」ではなく参照クラスを見る
FDA案件でも同じです。例えば、
・画期的治療薬指定
・ファストトラック指定
・RMAT指定
・Type B 面談で前向きな反応
・FDAとの見解一致
・加速承認について協議
という文言を見ると、承認確率を大きく上げたくなります。しかし本来は、それぞれ違う情報量を持っています。
カーネマン流なら、「FDA が前向き」ではなく、
・評価項目について合意
・ピボタル試験設計について合意
・有効性の基準値について合意
・CMCの準備状況
・申請受理
・諮問委員会の有無
・査察状況
へ分解します。つまり、ストーリーではなく個別要素へ分解する。これは後述するノイズ対策にもつながります。
臨床バイオ投資におけるカーネマンの一番重要な教訓
一言でまとめるなら、「良い物語を見つけることではなく、良い確率推定を作ること。」だと思います。そして順番は、
ベースレート
→ エビデンス
→ 確率の更新
→ バリュエーション
→ ポジションサイズ
です。
逆に最も危険なのは、
物語
→ 確信
→ ポジション構築
→ 後から数字で正当化
です。
臨床バイオほどカーネマンの研究がそのまま投資プロセス改善につながる分野はあまりありません。とりわけ、少数例、FDA、KOL、13F/13G、二値的カタリスト、CRL後の再評価のすべてを、一つの統一された意思決定フレームで扱えるようになるのが大きいです。
さらに一段進めるなら、かなり面白いのが、「カーネマン式 臨床バイオ投資テンプレート」を作って、各銘柄について「ベースレート → 臨床エビデンス → FDA → ファンドのポジション → バリュエーション → ポジションサイズ」を毎回同じフォーマットで採点する方法です。
これは『ノイズ』まで含めたカーネマンの考え方を、実際の銘柄分析システムにしたものになります。

