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「日本人は生きていない」とはどういう意味なのか?

「日本人は生きていない」とはどういう事なのか?

今から数十年前、養老孟司さんが絶賛していたロバーツ・グレゴリー・デイヴィッドの著書『シャンタラム』を読みました。インドの都市ボンベイ (ムンバイ) のスラムに逃亡した男の小説です。

私が読んだのは、当時新潮から出ていた文庫版『シャンタラム』で、上、中、下の3巻、1冊700ページぐらいのボリュームがあり、何ヶ月もかけて少しずつ物語の世界に浸りながら読んだのを覚えています。

シャンタラム

本書のあとがきに養老さんは次のように書いています。

この物語を読んで思う。人が生きるとはまさにこういうことではないのか。快適と便利、安心と安全、そうしたものを追求することによって、私達が同時に失ったものがある。血と涙と歓喜、それが実は生きることではないのか。

その後、養老さんの著書 (2011年3月に出版された)『養老孟司の大言論〈2〉嫌いなことから、人は学ぶ (養老孟司の大言論 2)』を読んでいると、次のような記述がありました。

日本に来ていた留学生で、留学生新聞の編集長をしていた中国人がいた。その人のエッセー集に載っていた話である。この中国人留学生が自分で車を運転して、東京から京都に行く。東京を出るときにドイツ人学生のバックパッカーをたまたま拾ってしまう。道中二人で話をしながら行くのだが、京都について別れるときが来る。

最後にドイツ人学生が「日本人は生きてませんからねえ」という。それに中国人学生も全面的に賛意を表する。たまたまその前に、インド人のインテリが日本に滞在した印象記を読んだ。そこにも同じ台詞があった記憶がある。

それは何なのか?「日本人は生きていない」多くの外国人のインテリがそう表するのである。その意味が日本人にはなかなか通じない。『シャンタラム』の主人公は生きている。いったい生きているとは、どういうことか。- 養老 孟子の大言論 II

このように、海外から来た留学生やインテリが日本人を見て「日本人は生きてませんからねえ」と、口を揃えていうのは、どんな背景・情景があるのか大変興味がありました。

私が当時『シャンタラム』を読んだ時は、鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃がありました。生きるのってこんなに過酷で辛いのか、そして時折訪れる生きてて良かった的な瞬間があり、正に生きるか死ぬかの生命の駆引きが繰り返されます。

『シャンタラム』読むと、世俗的な日本人 (例えばアイドルにハマったり、推し活したり、アニメの世界に陶酔したり …) はある意味生きてないように (お花畑的な意味で) 感じるかもしれません。

当時の私は、この「日本人は生きていない」という意味を、日本のオタクやアイドルに夢中の若い人たちは、ある意味消費目的につくられたアニメや、アイドルに夢中になり、自分が消費してると思ったら、実は消費されていたというような、クラインの壺的な無意識な迷路に迷い込んでおり、自分の人生というものが仮にあった場合、自分の人生を生きていないのではないか?というようなことをぼんやりと考えていました。

それが多分2011年とか2012年頃だったかと思います。そして10年くらい経ったある日、ひょんなことから、この内容をもっと詳しく知りたいという人が現れ、当時養老さんが「日本人は生きてませんからねえ」と仰っていた文脈を探していたところ、詳しい資料を発見しました!

平成16年3月5日に有楽町朝日ホールで開催された『メロウ・シンポジウム2004』の講演で、養老孟司さんがこのことについて詳しく話されていますので以下に引用してご紹介します。

「日本人は生きてませんからねえ」の意味

メロウ・シンポジウム2004、質疑応答の場面で、ある質問者が以下のような質問をしました。

先生のお話は解剖という普遍なところを基点にして考えを巡らされておられると理解させていただいてますが。そういう時に変な宗教じゃないのですが神様とか仏様というか、自分じゃないものとの関わり方が知りたいなという気がするんですが。

すると養老先生は以下のように応えています。

日本人の宗教観と真理

それはですね、ちょっと長い話になっちゃうんです。宗教というか絶対者との関係でありますね。私は中学・高校はイエズス会の経営している栄光学園という当時修道院が一緒になった、神父さんがたくさんいる学校で育ちましたのである程度キリスト教については習ったんです。

ですがクリスチャンではありませんし、ただの日本人です。いわゆる特定の宗派に属していないという意味でも、典型的な日本人だと思います。だけど私は外国で宗教を書かされたら、仏教と書きます。病院の書類にも宗教は書かされるんです。

それは、あたりまえで病院だと死にそうになりますから、死にそうになってから神父の替わりに坊さん呼んできたら面倒なことになりますし、それぞれの宗教で死ぬときの儀式・行事などが違ってきますから、当然病院側としては宗教を知らないと困るわけです。

そこに平気で無宗教と書くのは日本人ぐらいのものなんです。死んだ後の扱いも違ってきます。直接は関係ないんですが、真理ということを考えたときに、何らかの絶対なものを目の前に置くといのがおそらく世界中の普通の考えなんだと思うんです。

日本人は生きられないという意見

この前、インド人の書いた本を読んでましたら同じ事が書いてありまして、日本人に対しては、そういうものがないということをインド人が書いてますね。自分がある絶対者と正対する、真向かいに向かい合った、そういう存在であるという感覚を日本人は持ってないと、そういう経験をおそらくしていない。

そこから出てくるそういう人たちの表現は、「日本人は生きられない。生きていない。」と、これはどこで気が付いたかと言いますと、留学生新聞を作っているある中国人の留学生が京都の大学に行って、その方がエッセイ集を出した。私は書評の関係でそれを読んだ。割合面白かったんですが、現在その中で覚えていることが一つしかないんです。

彼が車で京都、東京間の旅の途中で、大道芸を見せながらヒッチハイクをしているドイツ人を乗せるんです。ドイツ人と中国人の二人連れが車で京都まで帰るその道中でどういう話をしたかとかが書いてあるわけです。最後にまったく筋に関係なくドイツ人が下りがけに、「日本人は生きられませんからね」と言った。

中国人はそれに同調しているんです。その言葉が私にはそのエッセイから理解できないんです。何の関係があるんだろう、と。だけどその言葉でふたりともそれまでの話を了解している。さらに偶然ですが、今年の1月にスリランカから来ているお坊さんと1時間以上話をしました。

これも今の中国人の話と同じで、前後にどういう話があったか覚えていない。はっきり覚えているのは、彼が突然、「日本人は生きてませんからね」と言ったことです。世界の人に聞いてみてください。日本のことを知っているという人に、そういう人たちが共通に持つ感想のひとつが、「日本人は生きられません、生きていませんから」というのがある。

真理と信仰の問題

それとさっき申し上げたことにどんな関係があるかというと、例えば真理の問題についても、どこまで本気かということはそういう絶対者と正対する形での真理というふうに外国人は感じていると思います。私は日本人ですからそう感じていない。ただどこまで本気かという表現をしました。私は自分の外にある絶対者との関係で自分を定義するということは出来ません。

この歳になって、イスラムやユダヤ教、キリスト教に改宗するわけにもいかず、いかずというよりも必然性を自分が感じなければ意味がないわけですから。だからお前が考えている真実は何だと言われたって今程度の話しか出来ないわけです。私の立場としてはどこまでも疑うことでしか真理というものを考えることが出来ません。

疑いと真理の探求

でも、それで不安も感じませんから、それでいいんじゃないかと自分では勝手に思っています。どこまでも疑うというと、非常に疑い深い人のように聞こえるでしょうが、長年続けていると安定した立場になるわけで、誰が何を言おうが所詮あいつが言っていること、何事が起ころうが所詮は目が見ていることですから、だから私は唯脳論という本を書いたのです。

みなさん方が世界をどうご覧になろうとそれは脳が見ていることでしょう、と。だから私はそういう絶対者をお持ちの方にはこう言い返すのです。あなたがそう思って見ている絶対者だってあなたの脳が見ているんでしょう。

それが証拠に寝ている間に見えますかというようなことを聞くわけです。いかにみなさんが何かを確かだと思ってもそれは起きている間だけの話であります。そして、確かだと思っている意識はどれだけ確かかといいますと、一日の三分の一はないのです。三分の一どころか学生をみていると半分以上意識がないんです。

そんなものをなんで当てにするんだと私は思うんです。そんなものを当てにするから、車に爆弾を積んで突っ込むようになっちゃうんだと言うんです。たまには寝ているときに自分が何を考えているか考えてみなというわけです。

上記の養老孟司さんの回答は、メロウ・シンポジウム2004の報告書から引用し、こちらで読み易く要点を区切ったものです。

まとめ

以上のことをまとめると、養老さんが仰っていた「日本人は生きていない」という表現は、日本人が絶対的な存在や真理に対して同じような関心や信仰を持っていないことを指していることが分かりました。

外国人留学生が述べているように、多くの外国人は自分たちが信じる絶対的な存在や真理と向き合って生きることが重要であると感じていますが、日本人はそのような経験や信仰を持っていないとされています。

また、この表現は、日本人が真理を疑い続けることでしか考えられないという立場を示しており、この立場は、不安を感じずに生きることができると述べられています。この日本人の立場を、一部 (?) の外国人はこのような生き方を「生きていない」と捉えているのではないでしょうか?この違いは文化や信仰の違いから来ていると言えそうです。